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許し受容

許しと受容のよろこび

私たちは、身近な些細なことですら、許せないことを経験する。

そんなふうに許せないとき、自分や相手に対して期待がある。

人として「こうありたい」「あってほしい」という期待が大きいほど

現実の自分や相手に幻滅し、失望し、許せなくなる。

自分を許せないとき、人も許せない。そして、どうやって許せばよいかも分からなくなる。

許せない世界で生きるのは、本当に苦しくて辛い。

孤独で、周りは敵だらけに見えてくる。

でも、本当はそうではないことを、自分のどこかが気づいている。

 

人は不完全であることを、相手も自分も不完全であることを、私たちは知っている。

でも、本当にそう思えていないから、許せない。

心の底から

自分の不完全さを認め、受け入れること、

人の不完全さを認め、受け入れること。

それが「許し」。

 

不完全さを受け入れることは、

自分が完成に向かう道筋の途中にいることを知ることでもある。

そして、自分以外の人も同じように、

完成に向かう道筋の途中にいる仲間(兄弟姉妹)だということを、

ハートで理解することでもある。

だからこそ、一人ではないことを、

周りは敵ではなく、真に仲間だということを理解できるようになる。

そのとき、孤独から、囚われから、ひとつ開放される。

許すことで、許され、ともに助け合いながら前に進んでいくことができる。

許しと受容の喜びが、確かに、そこにある。

だからもう、不完全であることを恐れない。

いまいるこの場所で、全力を尽くそう。

達成
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達成のよろこび

人はその時々に応じた、なにかしらの目的をもって生きています。

ああなりたい、こうなりたい。こんなことを成し遂げたい、こんな状態を作りたい・・・。

目的があるからモチベーションが生まれ、そこへ向かって歩んでいく動力を得ます。

目的を達成できたとき、私たちは自己肯定感とともにきっと大きな喜びを感じるでしょう。もしそれが自分ひとりではなく、仲間と一体となって達成したものであれば、それは倍増し、周囲や私たちの人生にとても大きな意味を残すことになるかもしれません。

 

しかし達成の喜びに浸り、それに執着していたとしたら、前に進むことはできません。

それは例えば、ジャングルジムのてっぺんへ登ろうとしたときに、掴んだその段を離して一つ上の段に手を伸ばさずして進むことができないことに似ています。

 

人は誰しも、人生の真の目的に向かって前に進んでいます。

 

なんのために仕事をしているのか

なんのために生きているのか

 

その答えに近づいたとき、私たちは与えられた人生をより輝かせることができるはずです。

人生をより輝かせることができたとき、私たちと、私たちの周りはあたたかいエネルギーで大きく膨らみ、喜びで満たされることでしょう。


 

ひとつひとつの達成はそこへたどり着くために必要な通過点であり、達成された瞬間にその次のステップへのスタートラインになります。

私たちは、小さな達成を積み重ね、その喜びを「次の課題を与えられる喜び」「次の目的を見出す喜び」へと変容させ、日々真の目的に向かって挑戦し続けます。

理解
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理解するよろこび

私たちが今理解していると思っているものの多くは、

対象を「自分の過去の経験」や「これまでに得た知識」、

さらに、それらから生まれた「観念や思い込み」という

“フィルター”を通して「理解」したもので、

それそのものをダイレクトに理解したものではないと言える。

 

ということは、真になにかを理解するためには、

このフィルターを外すことが重要になってくる。

もっと言えば、理解するということは、

このフィルターを外していく作業ともいえるかもしれない。

 

自分の目を覆うフィルターを排し、

自分をまっさらにして、自分のすべてをオープンにして、

ただ、対象に100%の関心を持って向かい合う。

判断も批判もラベル付けもすることなく、可能な限りそのままを。

そう考えると、真に理解するには意外に勇気が必要だ。

しかし、勇気を持ってチャレンジし続けていくことによって、

間違いなく私たちの目は大きく開かれていくだろう。

そして、視野が広がることによって、より多くの光が取り込まれ

今まで見えていなかったものにスポットが当たる。

認識が変わる。今までと違う世界が目の前に現れる。

 

見えてくるもののすべてが美しいものばかりではないだろう。

しかし、レッテルを貼らずに更にフィルターを剥がし続け向き合いつづければ、

その奥にあるとてつもないものが見えてくるような気がするのだ。

私はそのとてつもないものを見てみたいと思う。

私にとって理解する喜びとは、フィルターを剥がして行く先に見える、

そのとてつもないなにかに近づいていく喜びであり、

そしてその過程で得るさまざまな経験によって生み出されるものといえる。

しかし、最も大きな喜びは、それらを通して自分自身が、

実は「とてつもない」存在の一部であることを理解することなのかもしれない。

一体
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一体となるよろこび

細胞のひとつひとつが集まって、一人の人間をつくっています。

一人の人間はまた、宇宙から見れば地球という星のほんの一部です。

そのことに意識を向けると、私たちがいま「自分=すべて」だと思っているものが、実はもっと大きな「一体であるもの」を形成する、小さな細胞のひとつだということが見えてきます。

 

ひとつひとつの細胞を繋ぐ接着剤は、愛であると言われます。愛が命を育むために小さなひとつひとつを繋ぎ、全体としてまた大きなひとつの命を成しています。

故に、「一体となる」ということは、愛することによってなされます。

愛するとは、自分と自分以外のものの間にある分離の壁を溶かし、真に相手を尊重し、真に相手を受け容れることです。

それはまた、自分が「大きなひとつの命」のかけがえない一部であることを認識することでもあります。

 

一体となったとき、私たちは喜びを感じ、一人ではできなかったことを成し遂げることができます。そしてそれは一人では得難い大きな喜びをもたらすことを、私たちは知っています。

 

同時に私たちは、一体なるものの一部であることの責任を等しく負っています。自分の言葉が、態度が、思考が、良いことも望ましくないことも等しく確実に周囲に影響を及ぼします。そしてそれは、誰一人として真に孤独にはなりえないことも意味しています。

 

私たちは、一体であることを認識し、その責任を受け入れ、まず自らを成長させることに真剣に取り組みます。

自分にも周囲にも、繋がっていくすべてに喜びをもたらす存在であれるように。

成長
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成長のよろこび

真剣に成長を願い始めたら、なぜか目の前にどんどん壁が立ちふさがる。

どんどんみっともない自分が現れてくる。自分でも知らなかったものまで。

ダメなところにどんどん光が当たる。

 

みんな勘違いしている。それは誤解です、説明させてほしい。

それはたまたまそうやっちゃっただけ。

それは深い意味もなく使っちゃっただけの言葉。みんなもそういうことあるでしょ。

私はそんな無能な人間じゃない!

私はそんなひどい人間じゃない!

私の悪いところじゃなくて、いいところも見てほしい。

 

おかしい。今までは自分になぜか自信があったはずなのに、

今、その自信はどこかに吹き飛んでしまった。

自分が貧弱で情けない、ちっぽけなものに思えてきて、そこから抜けられなくなった。

周りのみんながものすごく成長して遠い先を歩いているように見える。

 

喜びはどこにあるんだろうか、後退してるんじゃないか、私はどこに向かっているんだろうと思える長い時間。

 

けれども周りのみんなはそんな私を見て喜んでいる。

意地悪で喜んでるんじゃない。

本気で喜んでくれている。

私が入ってしまっていた痛みと混沌の場所はみんなも通り抜けたことがある場所。

そこを抜けられたときの私を楽しみに待ってくれている。

 

一緒に成長したいと思える仲間たちが周りにいてくれて、

私の可能性を応援してくれている。

自分の心が折れそうになっても、もっと大変なことに挑戦しているたくさんの姿がいつもそばにあって、頑張る力をもらえている。

それに支えられ今までの自分と今の自分を少し客観的に見られるようになった。

そしたら、今はまだちっぽけな自分だけど、その自分に「がんばれー!」と声援を送れるようになった。

 

一見小さく見える気づき・成長が人生を、そして周りにもたらすものを大きく変えることになることはたくさん見せてもらってきた。

私のなかにもそのチャンスがあり、その先の世界には希望がある。

内に秘めた力に気付いてそれを生きるようになれること。

それが喜びであり、それを求め続けたい。

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愛とよろこび

愛を注いだ相手が喜んでくれたとき、愛した側にも喜びが生まれるでしょう。

では、愛を注いだ相手から拒絶されたとき、そこに喜びは生まれるでしょうか?

 

真に「愛する」とは、Give and Takeではなく、Give and Give and Give…。

見返りを求めず与え続けることであり、利他的な有り様であり、無償の行為です。

ときに許しがたいことを積極的に許すことであり、

忍耐に次ぐ忍耐を必要とすることであり、受け入れがたいことをも受け入れることです。

注いだ愛が拒絶されたとしても、変わらず愛を注ぎ続けることです。

そのとき、そこに喜びはあるでしょうか?

 

愛を感謝とともに受け取ってくれるような愛しやすい対象を愛することは、比較的容易でしょう。

でも、より多くの愛を必要としているのは、愛しにくい対象であることが多いものです。

私たちは愛しやすい対象に愛を注ぎがちですが、

愛の足りていないところにこそ多くの愛が必要です。

殺伐とした、凍るような、深い悲しみや苦しみのあるところにこそ、無尽蔵の愛が注がれるべきです。

そうであるなら、愛することには困難や苦痛が伴うことも多いでしょうし、

報われず、無力感に襲われることもあるでしょう。

 

それでも愛することを選択し続ける人がいたとしたら、

その人は相手の人生を思って無我夢中かもしれないし、強烈な責任感だけが支えかもしれません。

でももし、そこに喜びがあるとしたら……

それは善を為さんとする魂の性質そのものかもしれません。

 

愛を選択して生きるのか。安楽を求めて生きるのか。

私たちは、その中間を生きています。

その中で、愛を選択できる人になろうとする挑戦者であり続けたい。

善を為さんとする、ハートの奥底からの願いに忠実に生きていきたい。

そのように前進を望んで生きられることは、喜びです。

そして、愛する努力を続けることで、

私たちのハートの裡にある真の愛が花開いていくに違いありません。

平安
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平安のよろこび

平安──それは静かで穏やかで、平和な状態であり、

豊かさそのもの、それ自体が喜びです。

私たち人間だけでなく、きっと生きるすべての生命にとって価値あるものであり、理想です。

私たちが生きるこの世界において、

嵐が吹き荒れる状況では、多くの活動が制限を余儀なくされます。

それが外側で起きていても内側で起きていても、

私たちは思うように動くことができません。

嵐が過ぎ去った後には、雲が晴れ、太陽が輝き、鳥がさえずりはじめ、「平安」が訪れます。

外が平安であるときと同じように、

内側での「平安」が訪れたとき、私たちの中に曇りや濁り、波立つものはありません。

あるがままの姿を、まわりの必要を、ありのままに見ることができ、

冷静で客観的で的確な判断が可能になります。

そうしたクリアな状態こそが、私たちがほしい結果を作り出すために、

ベストを尽くすために不可欠です。

ですが、残念ながら私たちはいつも「平安」ではありません。

日常の外側と同じように、心の中であれこれ思考や感情がせわしなく動いており、

最善の判断をなせる意識の状態ではありません。

だからこそ、私たちは、何よりもまず、心の中に「平安」を確保する必要があります。

「平安」こそが、すべての喜びを実現していくために、

私たちがいつも目指すべき心の状態です。

そしてそれは、私たち自身が心の状態を選択することで可能となります。

外側で何があっても、心の「平安」を選び続けると決めること。

私は、そのように決意し、チャレンジし続けます。

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命を育むよろこび

命あるものは、生きとし生けるものだけでなく、私たちが創り出した“もの”も含め、そのひとつひとつの中に「可能性」というエネルギーを抱いています。育むとは、内に秘めた可能性を認知し、それをどのように開花させ活かすかということではないでしょうか。

であれば、命を育む喜びとは、一言で表すなら、“可能性を花開かせていく喜び”といえます。

 

それぞれの可能性の“花”を美しく咲かせていくには、対象をしっかりと見つめ、その内にある特性を理解し、そこに必要な水や栄養を与え、また不要な枝葉を取り除かなければなりません。それには愛と知恵、そしてどうやったら開花できるのかを考え続けるクリエイティビティを必要とします。そうしていよいよ大輪の花が開く時、その美しさと輝きは、育むもの、育まれるものに、そしてその周囲に大きな喜びを与えます。

 

ときに、どれだけ愛情を注いでもなかなか咲かない“花”もあります。それには、いつやってくるかわからない“その時”を、必要なことをやり続けながら、忍耐強くじっと待たなければなりません。しかし、すべての命が持つ可能性は、間違いなく、いつか開花させることができるということを私たちが信じるなら、開花を待つ長い時を、絶望ではなく、むしろ喜びと共にすることができるはずです。なぜなら、その育む過程こそが、実は最も美しく、愛おしく、人に力を与えるものだからです。

 

自分を、そして自分以外の命をそのように見ることができるなら、私たちは実にたくさんの美しさと豊かさ、そして喜びの中に生きていることを知り、そのすべての命に感謝するとともに、ひとつひとつ大切に愛を注いでいくことができるに違いありません。

命を育む
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命を育むよろこび

命あるものは、生きとし生けるものだけでなく、私たちが創り出した“もの”も含め、そのひとつひとつの中に「可能性」というエネルギーを抱いています。育むとは、内に秘めた可能性を認知し、それをどのように開花させ活かすかということではないでしょうか。

であれば、命を育む喜びとは、一言で表すなら、“可能性を花開かせていく喜び”といえます。

 

それぞれの可能性の“花”を美しく咲かせていくには、対象をしっかりと見つめ、その内にある特性を理解し、そこに必要な水や栄養を与え、また不要な枝葉を取り除かなければなりません。それには愛と知恵、そしてどうやったら開花できるのかを考え続けるクリエイティビティを必要とします。そうしていよいよ大輪の花が開く時、その美しさと輝きは、育むもの、育まれるものに、そしてその周囲に大きな喜びを与えます。

 

ときに、どれだけ愛情を注いでもなかなか咲かない“花”もあります。そんなときは、いつやってくるかわからない“その時”を、必要なことをやり続けながら、忍耐強くじっと待たなければなりません。しかし、すべての命が持つ可能性は、間違いなく、いつか開花させることができるということを私たちが信じるなら、開花を待つ長い時を、絶望ではなく、むしろ喜びと共にすることができるはずです。なぜなら、その育む過程こそが、実は最も美しく、愛おしく、人に力を与えるものだからです。

 

自分を、そして自分以外の命をそのように見ることができるなら、私たちは実にたくさんの美しさと豊かさ、そして喜びの中に生きていることを知り、そのすべての命に感謝するとともに、ひとつひとつ大切に愛を注いでいくことができるに違いありません。

調和
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調和のよろこび

私はずっと自分でないものを求めていた。長いこと長いこと。

でもやっと少し気付いた。

オーケストラにはバイオリンやトランペットのように華やかに見える楽器もあるけれども、他にもいろんな楽器がたくさんあって、そしてそれらがあるからあの素敵なハーモニーができあがる。

好きな楽器は?という質問に名前が挙がってくることは少ないだろうけれども、ユーホニウムの何ともいえない味のある深い音色は他の楽器では出せないし、盛り上がりの頂点で鳴り響くシンバルには心躍らされるし、静かな場面に花を添えるトライアングルの繊細な音も、それがなかったら、なんて味気ない曲になってしまうだろう。

そしてそれぞれの奏者は、その一つの音を紡ぎだすために、たくさんのたくさんの努力を積み重ねる。最高のタイミングで音を出せるように周りの音に耳を研ぎ澄ませ、一番適した大きさで音を出せるように何度も何度も繰り返し練習し、さらに磨き上げるために教えを請い、それが安定してできるように訓練を積み重ねる。それは自分のためでなく全体のために。

 

それと同じかもしれないということにやっと気づいた。

いろんな個性が集まるから奥深いものが織りあがる。

自分の求めていた才能じゃなかったけれども、自分に与えられたユニークさを見てみよう、そしてそれを大事に磨いていってみよう、そう思える。

あこがれていた華やかさはないけど、客観的に見ることができるようになったら、なんともいえない味がある個性が見えてくるのかもしれない。磨いていくとその奥には思ってもみなかった輝きが隠れているかもしれない。いや、隠れているに違いない、と周りを見ていると思えてくる。

 

この世界にあるものみな、そのようなものかもしれない。

 

誰にも意識すらされないものも含めて一つ一つが、見えないところでも、誰に認められることがなくても大事な役割を担って全体のために存在しているという。

だからこそ創られる、複雑であまりにダイナミックな調和の世界。

それを作り上げている多種多様な個性が、もっとはっきり私の目に見えるようになりますように。一つ一つを感謝をもって大事に扱えるようになりますように。そして、私もその中の小さなパーツとして何か役に立てる存在になれますように。

縁するチームの調和に貢献できる者となれますように。

分かち合う
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分かち合うよろこび

私たちは、分かち合いによって、生かし、生かされています。

赤ちゃんは、お母さんとお父さんの愛、お産を手伝う人の力を分かち合われて、ときに命さえも捧げられて生まれてきます。

そして生まれながらにして、まわりの人に幸せを分かち合う力をもっています。

 

多くの人は、自然の恩恵を分かち合われて、糧を受け取っています。

ときに、慈しみを分かち合うことで人を生かすことができます。

痛みや悲しみを分かち合うことで、命を輝かせることもあります。

 

一方で、分かち合えずにいるときは、失うことへの恐れが道を阻んでいます。

自分だけを満たそうと、ひとりじめしたり、間違った方法で手に入れようとすると、

世界にアンバランスが生じます。世界で起こっている飢えや環境破壊などはまさにこの「恐れ」が原因なのではないでしょうか。

 

この世にある食べ物をみんなで分かち合えたら、飢えることはないのだそうです。

限りある資源を分かち合えたら、地球の環境悪化を食い止められるかもしれません。

私たちが身近な人に優しくあれたら、私たちにとって生きやすい世の中になるでしょう。

 

分かち合いとは、自分のエネルギーを減らしていくことではありません。

真に分かち合えたとき、欠乏感ではなく充足感、すなわち愛と呼ばれるもので自分も相手も満たされるのです。

 

誰もが命を輝かせ、健やかに生きられる、愛にあふれた世界で生きたい。

幾世代先の子孫にも、美しい自然と愛に包まれて生き続けてほしい。

愛が分かち合いを動機づけ、分かち合いによって愛が溢れるという循環によって命は育まれ、次の世代にバトンを渡し、受け継がれていきます。

こうした美しい命の営みそのものが、分かち合う喜びです。

 

私たちは、この喜びを次の世代に送り続けるという覚悟のもと、

足るを知り、恐れを手放し、分かち合うことを、日々学び実践していきます。

その先に、すべての命が満ち足りる世界があることを信じて。

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希望

希望の光

できるとか、できないとか、

やりたいとか、やりたくないとかではなく、

やるべきことをやる。そのように生きたい。

 

これまで、やるべきことにやれない理由をつけてきた。

どうすれば良いかわからない、時間がない、能力がない、

やる気がしない。自分一人がやっても意味がない。。。

でも、これからはやらないところにとどまらない。

この瞬間からやるべきことをやると決意してやるだけだ。

 

これをやることが重要なのはわかっているけれど、

目先の事にとらわれ後回しにしてしまうことがよくある。

あるいはやらない方が良いとわかっているのにやってしまうことがある。

そんなときは、深呼吸をして、心を静め、

いま起きている状況からいったん離れ、魂のささやきに耳を傾ける。

そして自分の感情や欲求や思い込みで優先順位を間違えていたら、

すぐにいまやるべきことに戻る。

 

やるべきことにトライした結果が期待どおりではなかったとしても、

批判や嘲笑を受けたとしても、嘆いたり、何かのせいにしない。

すみやかに反省して、やるべきことにすぐに戻る。

 

好き嫌いで選ぶ、気分で選ぶ、苦楽で選ぶ、小さな損得で選ぶ、

これまではそのように選んできたことがほとんどだ。

それを、ハートからの選択に変える。

これがこれまでの人生でできていない大きなことだ。

いますぐに変えられることだ。

 

そうしたらやっとハートが示す方向に進める。

善いことの役に立つことができる。

 

逃げない。あきらめない。

この人生は変えられる。

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感謝のよろこび

いまここに自分がこうしていること。

これは当たり前のことではない。

 

父と母が巡り合って、私がこの世界に生まれることを心から望んでくれた。

そして自分一人では何もできないわたしが成長するために、

たくさんの助けが与えられ続けた。

両親が私の小さな手をひいて、新しい世界を見せてくれた。

友や先生と出会い、たくさんの経験や学びをもたらしてくれた。

仕事の仲間たちが、私を愛し、助けてくれた。

そして、それら全ての根源となる地球の恵み、大気や水、

太陽のエネルギーが惜しみなく私に与えられた。

 

それなのに、私はそれらの有り難さをほとんど意識せず、

当たり前のようにもらい続けていた。

与えられてきたたくさんのものを活かして、

自分がもっと与える人にならなければいけないのに、

自分が抱えている問題や、足りないところばかりが目についた。

私はもっと欲しいのだと求め続けた。

 

その一方で、世界には飢饉・貧困・紛争・災害などによって

最低限の生活や安全を確保していくことも困難なたくさんの人々がいる。

そして、豊かな社会で生まれ育った私に与えられてきたものの中には、

労働力の搾取や環境汚染といった犠牲の上につくられたものも少なくない。

しかし、私はその事実に向き合おうとせず、それらを享受してきた。

 

本当にごめんなさい。

そして

ありがとうございます。

 

無駄に歳をとってしまったけれど、

これからは、もっと心の目を開き、

いま何が起きているのか、知るべきことを知り、

自分に何ができるのかを良く考え、

育んでもらったこの生命を使って、

感謝とともにこの世界に返すべきものを返していきます。

 

人々が、搾取や奪い合いとともに生きる未来ではなく、

助け合い、与え合うことですべてが豊かになっていく未来のために。

感謝の喜びに満ちた、健やかな世界をつくるために。

感謝
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